創刊号において、発行人は編集方針について表明するものですが、スピンクはあえてそれを曖昧にしました。「我がスポーティングニュースは、慣例をあえて無視し、読者たち自身が編集方針を想像するに任せたいと思います」。おそらくは、友人でもあるジョセフ・ピューリッツァーの言葉を信じたのでしょう。「しっかりしたビジネスマネージャーと本当にものを書ける編集者さえいれば、どんな新聞もすぐに儲かる組織にすることができます」。全8ページからなる創刊号は、何本かの野球関連の記事が掲載されていましたが、第一面の最長の記事は競馬関連で、同じくらい貴重なプロレスの記事も掲載されていました。年間定期購読料は2ドル(単品は5セント)、広告掲載費は1本につき20セントでした。同紙はすぐさま大きな成功を収め、必然的にスピンクは複数の業務を負うこととなりました。弟のチャールズをサウスダコタから呼び寄せ、ビジネスマネージャーとして週給50ドルで雇い入れました。1886年5月に、同紙は「フィラデルフィア西部で最大のスポーツ紙」と名乗りを上げました。1887年10月、つまり、わずか1年半で、発行部数は4万部に達しました。
野球の興隆に貢献
他のスポーツを排除したわけでないにもかかわらず、スポーティングニュースは徐々に、野球関連のニュースが紙面の大半を占めるようになりました。1887年前半から、同紙は各野球リーグごとにセクションを設けるようになり、その後数か月間にわたって3つのマイナーリーグに関する「公式機関紙」と称されるようになりました。1890年以降に編集者として大きな役割を果たすようになったチャールズ・スピンクが、このような良好な関係を構築しました。実際のところ、アルの新聞に対する情熱は薄れており、その他の分野、具体的には舞台へ力を入れるようになっていました。『ザ・ダービー・ウィナー』の脚本を執筆して舞台を制作し、42人の役者と6頭の馬を起用しました。セントルイスにおいては興業は成功したものの、その後の地方巡業は失敗し、アルは財政破綻しました。自身が保有するスポーティングニュースの株を売却して返済できないローン分を支払おうとしました。チャールズはこの株を買い取り、ふたりの兄弟は決裂しましたが、チャールズが1914年に亡くなる直前に仲直りを果たしました。
スピンク家の遺産
チャールズの死去に伴い、同社の主導権は息子のジョン・ジョージ・テイラー・スピンクに引き継がれることとなりました。1888年生まれの彼は、リング・ラードナーが7週間だけ編集部に加わって混乱を引き起こす1年前の1909年に入社しました。若きテイラーは、熱意に関しては申し分なく、バン・ジョンソンのオフィスに膨大な電報を送り付け、ワールドシリーズで公式スコアラーを務めたいと主張しました。ジョンソンは図々しい要求に激怒しながらも、スピンク家への忠誠心と板挟みになりました。その後、その願いは実現し、テイラーはこの好意への恩返しをしました。彼と妻は一人息子に父親とジョンソンの名前を与え、チャールズ・クロード・ジョンソン・スピンクと命名しました。
第一次世界大戦中のスポーツニュース配信
ドイツに対して宣戦布告することによって米国は1917年4月に第一次世界大戦に参戦することとなり、スポーティングニュースはプロ野球と共同歩調をとり、愛国的活動に従事することとなりました。選手たちは試合前に軍事訓練を行い、銃の代わりにバットを肩に担ぐこととなりました。ワシントン・セネターズのオーナーだったクラーク・グリフィスは、バット・アンド・ボール・ファンドを創設し、ひとり当たり25セント以上は受け取れないという制限を課しつつも、7万5000ドルを調達して海外の戦線に送られた兵士たちのために野球用具やその他のスポーツ用品を贈呈しました。スピンクはジョンソンを説得し、格安でアメリカンリーグに発行紙を買い取ってもらい、リーグの負担で新聞を海外に送る仕組みを作り上げました。当初は毎週15万部が海外に配達されており、各クラブがさらに負担して追加分を購入してくれていました。1918年11月の停戦後、ニューヨーク・ヤンキースの共同オーナーだったティル・ハストンの提案により、スポーティングニュースの紙面はフランス駐在の米国人兵士に送付されて、帰国の途で読めるよう配慮されました。
スポーティングニュースが「野球界のバイブル」に
1920年代に、スポーティングニュースは非公式ながら愛称を得ることとなりました。伝説によると、スピンク一家はフランスのシェルブールで休暇を楽しんでおり、船に乗り込むのを待っていたところ、桟橋から声が聞こえてきたのです。よく見ると、ジャック・ポッターという球団取締役で、彼はポケットにスポーティングニュースを入れていました。ポッターは船長のほうに向きなおり「ここにはバイブルを書いた男がいるぞ」と紹介しました。「誰のことだ」と船長が聞き返しました。「マタイか、マルコか、ルカ、ヨハネか誰のことだ?」。ポッターは「テイラー・スピンクだよ」と返事をしました。「この男こそ『野球界のバイブル』を書いている張本人なんだ」
スポーティングニュースはテイラー・スピンク時代と同様に、その後も30年間にわたって順調な発展を続けました。社史はそのまま、野球界の歴史と深く絡み合っており、年間を通して毎週同紙を読まなければ野球界の全容を把握できないという状態が出来上がっていました。特派員一覧は、全米の一流新聞記者から構成されており、米国スポーツジャーナリズム界の紳士録とも言えるものでした。読者に対してほかのどこでも手に入らない貴重なインサイダー情報を提供し、かつ記者たちは球界に対して慎重かつ敬意を払う姿勢を保ち続けました。
この時代にも汚点がなかったわけではありません。
1947年にジャッキー・ロビンソンが初の黒人選手として「肌の色による壁」を打ち破るまで、スポーティングニュースは野球界の統合に反対していたのです。
その後、その姿勢を徐々に和らげ、最終的にMLBの統合を全面的に容認するようになりました。
第二次世界大戦突入
米国が1941年12月の日本による真珠湾攻撃を受けて第二次世界大戦に参戦したあと、野球界とスポーティングニュースは窮地に陥りました。戦時中にも野球を続けられるのか、と。しかし、フランクリン・ルーズベルト大統領がかの有名な「グリーンライト」書簡で「率直に言って、私は国全体のためにも野球は続けられるべきだと思う」と表明したことで、この週刊紙はこの書簡を第1面に掲載し、大統領の声明を大絶賛しました。スピンクは陸軍省にかけあい、毎週8ページの特別海外版を海外駐在の米兵に対して配信できる特別許可を得ることができました。また、リゲット&マイヤーズタバコ社と提携し、同様のエディションを製作してチェスターフィールド・シガレット社の後援を得て、米国の帰還兵収容病院にも配信できる体制を整えました。両軍用版とも、インクと紙を節約するため、タブロイドサイズで印刷され、その後1943年7月からは通常版も同様の形式を導入することとなった。
1942年9月17日発行号で、編集方針は完全に転換されることとなり、5面の下で以下の発表がなされました。「来週はアメリカンフットボール」。1年の終わりには、アメリカンフットボールの記事に加えてシーズン開幕からプロのホッケーや大学バスケットボールの記事も掲載されるようになったのです。編集対象範囲の拡大により、読者の支持はさらに高まることとなりました。
1946年、スピンクは桃色の紙で8ページにわたる『ザ・クォーターバック』を刊行しました。同紙は12号まで続き、翌年秋からはスポーティングニュースに別紙として挿入されることとなりました。アメリカンフットボールのシーズンが終わると、『ザ・クォーターバック』は『オールスポーツニュース』として、バスケットボール、アイスホッケー、ボクシングも網羅するようになりました。毎年春になるとこうした競技のシーズンが終了するため、同時期に野球の春季キャンプが始まるとともに野球の報道に切り替わるようになったのです。
この組み合わせは、1963年までは順調そのものでした。その時期まで、同紙の主導権を握っていたのは創業家の4代目かつ最後となるC.C.・ジョンソン・スピンクでした。テイラーは長年にわたる肺気腫との闘病の末、1962年に心臓発作で亡くなりました。ジョンソンは1939年に入社し、第二次世界大戦に一時期海軍に加わったため休職期間はあったものの、父親の跡を継ぐ際も全く違和感はなく、同紙の近代化を推し進めました。『オールスポーツニュース』最終号は1963年3月2日に刊行されました。翌週からはバスケットボールとボウリングも紙面に加わりました。1954年に刊行されたライバル誌の『スポーツイラストレイテッド』に対抗するべく、スポーティングニュースは「シーズン中」から「通年」へと取材範囲を拡張し、ゴルフ、テニス、競馬、自動車レース、サッカーも紙面に加えるようになりました。さらに、ジョンソン・スピンクは父親が作り上げた文章と漫画による第一面という伝統を放棄し、写真と太字の見出しに変更しました。まもなく、表紙一面にはカラー写真を常用するようになりました。
世代交代:
スポーティングニュースの新時代
1977年に、スピンク一族は事業をロサンゼルス・タイムズの親会社であるタイムズ・ミラー・カンパニーに売却しました。基幹事業である刊行物とスポーツグッズの権利もこの中に含まれており、月刊誌、野球、アメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケーの年間ガイドブックも入っていました。買収直後に、刊行物がさらに拡張されて「ベースボール・イヤーブック」も導入されることとなり、シーズン前予想も大々的に行われるようになり、その後は幅広い読者層を得るべくコーヒーテーブルブックとして定期刊行化されました。
1980年4月、イラン革命により人質となった米国人のうちのひとりの夫人であるマージ・ジャーマンがスポーティングニュースに対し、人質向けに刊行物を送付することはできないかと問い合わせてきました。ジョンソン・スピンクはすでに国務省を通じて毎週5部を配達していると回答しました。人質だった夫のブルース・ジャーマンの言葉をそのまま借りると、スポーティングニュースは「神からの贈り物」でした。イラン側はスポーツ関連の情報など何の役にも立たないと思い込んでいました。「我々は一語一語くまなく読み、ボロボロになるまで回し読みをした」とジャーマンは振り返っています。「もちろん、スポーツ界の最新情報を知ることができたのですが、ところどころに一般ニュースも散りばめられていたので、我々は世間の動きを知ることができました」。
新たなメディアに拡大
1991年、スポーティングニュースはジョン・ローリングス編集長のリーダーシップの下で構造改革を図りました。彼の目標は週刊紙を現代的な雑誌に転換させることでした。編集方針は「6大スポーツ」に絞られました。野球、プロと大学のアメリカンフットボール、プロと大学のバスケットボールとアイスホッケーです。雑誌のサイズが少し変わり、紙質も向上し、カラーとグラフィックスが劇的に増えました。1996年4月には、インターネットにも拡張しました。アメリカ・オンライン上のコンテンツエリアはAOL選出の「年間最優秀新規エリア」に選ばれました。1997年1月には公式サイト http://www.sportingnews.com を立ち上げました。1年後、同サイトはナショナル・マガジン賞の「優れた新メディア賞」を受賞しました。その後も数年にわたり、内容とスタイルに改変を加え続け、さらに多くの熱心なスポーツファンを魅了し続けました。多くの素晴らしいストーリーには“See a Different Game“(別のゲームを見よ)のロゴが添付されていました。
2001年、NASCARの記事も加えるようになり、広告収入が激増しました。アレンのビジョンだった「つながった世界」は時期尚早だったことが判明し、2006年10月、彼は会社をノースカロライナ州シャーロットに拠点を置くアメリカン・シティ・ビジネス・ジャーナル社に売却しました。これにより書籍・ガイドブック等の刊行物は打ち切られることになりました。
2007年7月、ウェブサイトのスタッフはシャーロットの本社に異動となり、その1年後、紙媒体の編集部員も本社へ異動となりました。雑誌は隔週発行となりウェブ媒体への比重が増し、日刊のスポーティングニュース・トゥデイはEメールにより配信されました。
創業126年目となる2012年の12月、スポーティングニュースは紙媒体としての最終号を発行し、以後はデジタルのみに移行することになりました。2015年にACBJはスポーティングニュースの持ち株をパフォーム(のちのDAZN)に売却しました。
2020年、スポーティングニュースはDAZNから英国の投資家グループ、パックス・ホールディングスに完全買収されました。米国市場向けであったwww.sportingnews.comを取得した同社は、今後カナダ、オーストラリア、日本向けのサイトも構築し、さらなる事業拡大と複数の国への進出を目指しています。
ベンソン・テイラーは135年に及ぶTSNの歴史上わずか15代目となる編集長であり、今後も世界的拡張と新しい言語版の立ち上げを実現していくことに。